RX-7が絶版となり、いよいよロータリーの灯が消えるかと思われた際(きわ)に、具現化されたマツダスピリッツ。



あまりにも大きすぎるインパクトを残してこの世を去ったピュアスポーツ、RX-7。


その後継として生み出されたRENESISエンジンを搭載したRX-8。



…と、いうイメージは捨てた方がいい。


8は、ただ7の次の番号ではない。



気高さすら感じさせる、美しさと危うさをもった芸術品、かつ兵器でもある日本刀のような7に対し、孤高の魂を忍び、NAらしく自然に吹け上がる特性を持ったロータリーに、クイックかつフラットライドなハンドリングと走行性能の8。

例えるなら持つ者の手に馴染む包丁のような、キレとしっくり感を感じさせる。



雨の日に不用意なアクセルワークをしてしまうとスピンしてしまいかねない7のような気難しさはなく、8と意志を交わせることが出来れば(そしてそれはそんなに難しいことではない)、不用意をたしなめてくれるような懐の深さがある。


意志のままに操れるのではなく、意志を汲んで動いてくれる感覚であると言えばよいか。


まったくの個人的なイメージで、その元のクルマにも触れたことすらないのだが、RX-8というクルマはRX-7二世ではなく、ルーチェ ロータリークーペや、ユーノスコスモやらの血統なのではないかと捉えた方が彼女の本質に近づけるような気がする。



確かにピュアではない。

だが、ピュアであることは公道という名の社会において価値はあるが、どれほど大切なものなのか。

自分の中のアイデンティティとして嘘のつけない自分を重んじるのは自由だし、それ自体は美しいことだ。

僕自身もそれは大いに尊重するし、かく在りたいとも思う。だが、この世をよりよく生き延びるため、人としてのキャパシティを広く持つこともまた正しい在り方の一つではないだろうか。






ロータリーエンジンとは、他に遍く(あまねく)存在しているレシプロエンジンに比べ、(軽量化に繋がる)少ない部品点数、少ない排気量でより多くの出力が得られる(その代わりに燃費の面ではかなり劣る)。


その効率のよさからスポーツイメージを強くもたれているが、レシプロとの比較でのメリットはそれだけでなく、部品点数の少なさからくるメカノイズの少なさ、つまりはエンジンの静粛性がある。


進化の著しいレシプロに追いつかれ、ハイブリッドには劣るが、生まれながらに持っているその性質はスポーティーな演出を施されている8においても当然のように存在している。



家族を載せてスポーツできるクルマ、ではなく、家族全員軽快に走るクルマ。現状よりもあと僅か少しだけグランツーリスモ的なイメージで見てもらった方が8の素質が活かされるのかな、という印象を持った。